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東京地方裁判所 昭和33年(行)67号その2 判決 1967年4月11日

原告 仙台勤労者音楽協議会 外四〇名

被告 国

訴訟代理人 横山茂晴 外四名

主文

1  本件各訴えを却下する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

(当事者双方の求める裁判)

第一原告らの求める裁判

1  原告東京勤労者音楽協議会(以下、勤労者音楽協議会を労音と略称する。)を除くその余の各原告と被告との間において、各原告らが昭和三二年四月一日以降本件口頭弁論終結の日までの期間につき法人税を納付する租税債務を有しないことを確認する。

2  原告東京労音と被告との間において、同原告が昭和二四年四月一日以降本件口頭弁論終結の日までの期間につき法人税を納付する租税債務を有しないことを確認する。

第二被告の求める裁判

一  本案前の申立て

主文と同旨。

二  本案の申立て

1 原告らの請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

(当事者双方の主張)

第一原告らの主張

一  原告らの性格ならびに組織および運営の実情

(一) 原告らは、健康で文化的な音楽、舞踊等を自主的に上演し、会員の情操と文化的教養を高め、音楽サークル活動の発展を図り、日本文化の創造と育成に寄与することを目的として、それぞれ別表結成年月日欄記載の各年月日にその各肩書住所地およびその周辺の職場、地域、学校等における勤労者、農民、学生等の音楽愛好家をもつて組織された団体であり、規約があつてこれによつて代表の方法、最高決議機関の組織および運営の方法、財産の管理等が定められ、社会的現象または実在としては団体として活動しているが、法律的には個人でも法人でもなく人格を有しないものである。したがつて、原告らは民事訴訟法第四六条に規定する「法人に非ざる社団にして代表者の定あるもの」、すなわち、いわゆる人格なき社団に該当する。

(二) 原告らは、右のような目的の下に組織されたものであり、この目的のための諸活動は労音運動と呼ばれているが、昭和三六年一一月全国労音連絡会議において、労音運動の基本的任務が決定された。もつとも、それ以前から右決定の趣旨で活動がなされていたのであり、この決定は明文化された確認事項であつた。この決定の一部を引用すると、次のようなことがいわれている。すなわち、「労音運動は、日本民族の進歩的音楽運動の伝統を受け継ぎ、発展させ、海外諸民族の民主的遺産に学び、芸術家、知識人ならびに進歩的諸勢力と協力して、自分自身の成長と社会の進歩に役立つ音楽文化を創造することを目的としている。また、そのことによつて、勤労者の人間性を高め、その連帯性を強化する運動である。労音運動は、勤労者の立場に立つ民主的音楽運動である。その組織原則は、サークルの活動を基礎にした民主的運営である。」と。また、原告らには共通の綱領があり、

「一、私たちは、よい音楽をより安く、より多くの人たちと楽しみ、私たちの生活にひろく音楽文化をもたらします。

一、私たちは、全国各地の労音、文化人、音楽関係者と手をつなぎ、国民音楽の創造をします。

一、私たちは、労音の自主性を堅持し、常に会員の希望、意見を尊重した企画運営を私たちの手で行ないます。」

と掲げられている。労音運動の目的は、右の基本的任務および綱領によつてほぼ表明されている。そして、原告らの活動、すなわち、いわゆる労音運動は右の基本的任務および綱領に即し、これに統一されて行なわれているのである。

(三) 原告らの会員数は、各原告によりまちまちであり、原告東京労音および同大阪労音は一〇数万人の会員を擁し最大の組織を有しているが、原告らの大部分は会員数約二、〇〇〇人から五、〇〇〇人(最小のものは原告田川労音であり、会員数は約五〇〇人である。)までであり、横浜、名古屋、京都の各労音は右両者の中間に位し会員数は一万人以上である。

原告らの組織および運営の実情は、右のような会員数の多少によつて若干の相違はあるが、本質的には同じであり、その詳細は別紙第一記載のとおりである。

二  昭和三二年三月三一日法律第二八号により当時の法人税法(昭和四〇年三月三一日法律第三四号(以下、新法人税法という。)による全面改正以前のもの。以下、旧法人税法という。)第一条第二項が附加改正されると、国税当局は、原告らが同条項に規定する「法人でない社団で代表者の定があり、かつ、収益事業(継続して事業場を設けてなすものに限る。)を営むもの」に該当するとの解釈をとり、じ来幾回か各所轄税務署長を通じて原告らに対し、その設立年月日、名称、事業目的、事業年度、収益事業の種類、代表者の氏名、本店または主たる事務所の所在地等の報告をなし、定款、規約等の写し、事業所の名称、所在地、収益事業経営の責任者の氏名を記載した書類、貸借対照表、損益計算書、財産目録、収益事業の概況を記載した書類を提出することを要求してきた。そして、さらに、原告東京、横浜、岡山、広島、福岡、田川、宇和島、香川、函館、半田、和歌山、出雲、愛媛、今治および小田原の各労音、同宮崎音楽協会および同岡山労音津山支部に対しては、各所轄税務署長から「法人税法の適用があることのお知らせ」と題する文書により、「貴団体は、同法(旧法人税法第一条第二項)の適用を受ける社団に該当すると認められますからお知らせします。なお、その結果、税法所定の手続が必要となりますので、裏面記載の「法人税法の適用を受ける人格のない社団等の手続」を熟読され、期限までに所定の手続をとつて下さい。」との趣旨の通知がなされ、かつ、かさねて前記報告事項の報告および書類の提出を要求してきた。

三  しかしながら、原告らは法人税法により法人税の納付義務を負うものではない。

(一) 原告らは、旧法人税法第一条第二項に規定する「法人でない社団で代表者の定があり、かつ、収益事業を営むもの」に該当しない。

(1) 原告らは「収益事業」を営むものではない。

(イ) 法人税法の予定する「収益事業」の範囲について

原告らの主張を明らかにするためには、まず、法人税法がどのような性質と種類を兼ね備えた事業を収益事業としてとらえ、かつ、どのような収益を課税所得の対象としているのかを解明する必要がある。

旧法人税法第五条第四項は、「収益事業の範囲は、命令でこれを定める。」と規定し、「収益事業の範囲」を政令の規定に委ねているが、昭和四〇年四月一日から施行された法人税法施行令(同年三月三一日政令第九七号。以下、新法人税法施行令という。)による全面改正前の法人税法施行規則(昭和二二年三月三一日勅令第一一一号。以下、旧法人税法施行規則という。)第一条の一一第一項は「……の収益事業は左に掲げる事業とする。」と規定し、物品販売業以下二一業種を掲げるにとどまり、収益事業の属性というか本質というか収益事業一般についての概念規定を欠き、同法の委任に答えていない。このようにみてくると、「収益事業」一般についての概念は、社会通念として定着した概念または講学上の定義に従つて決定する以外に方法はないと思われる。

そこで、「収益事業」一般についてその属性または本質に関する社会通念または講学上の定義を調べてみよう。まず、「収益」とは何か。法学辞典(末川博編)四四八頁では、「天然果実および法定果実を収取すること」と定義している。次に、「事業」についてみてみよう。広辞苑(新村出編)九二〇頁では、「一定の目的と計画とに基づいて経営する経済活動」と説明する。このようにみてくると、「収益事業とは、一定の天然果実および法定果実を収取する目的と計画に基づいて経営する経済活動の一切の事実をいう。」と定義することが素直な概念規定であると思う。

また、旧法人税法第五条は、公益法人等の非収益事業所得に対する非課税と収益事業所得に対する課税の原則を規定している。右規定はシヤープ税制使節団の勧告に基づいて設けられたものであるが、同使節団は、公益法人等が公益目的事業以外に営利法人(正確にいえば、私益法人)が私的利益追求のために行なう私的企業と同種の事業を行なつている事実に着目して、課税上の権衝つまり租税負担公平の原則から、このような公益法人等の公益目的外事業を「収益事業」と命名して(同使節団の報告書巻一の一一六頁には「収益事業」に当る原文としてProfit―making activitiesという用語があり、これに対する日本語訳として他の個所において「収益を目的とする活動」という用語が使われている。)、課税対象事業とすべき旨勧告したのである。一般に、公益法人等は、その本来の公益事業遂行のための費用を得る目的のために収益事業を営むものであるから、その収益事業が目的意識的に収益を得るために営まれるものであることは、営利法人の行なう営利事業が目的意識的に収益を得るために営まれるのと同じである。したがつて、公益法人の行なう公益目的事業以外の事業は、営利法人の行なう営利事業と類型をひとしくするものであるかぎり、これを「収益事業」と命名しても、営利事業としての本来的属性が変るものではない。「収益事業」と呼称したのは、民法第三四条との関連上「営利」という用語の使用を避けたものであると解される。

いずれにしても、旧法人税法にいう「収益事業」とは、公益法人等が行なう事業のうち、公益法人等が定款または寄附行為等においてその本来的目的としてうたい込みそれによつて主務官庁から許認可を得た事業以外の附属的目的として許認可を得た営利的事業を総括するものであるということができる。別の表現を使えば、「収益事業」とは、営利法人の行なう事業と類型をまつたくひとしくするものであつて、当該事業活動の成果、計算の結果がその事業活動に投下された元本または資本(他から借り入れ調達したものを含む。)を増殖することを目的意識的に企図して営まれる生産的経済活動であると定義づけることができよう。

次に、「収益事業」の「所得」についてみてみよう。旧法人税法第九条は、「内国法人の各事業年度の所得は、各事業年度の総益金から総損金を控除した金額による。」と規定し、これをうけて、旧法人税法基本通達は、「総益金とは、法令により別段の定のあるものの外資本の払込以外において純資産増加の原因となるべき一切の事実をいう。」(基本通達五一)とし、「総損金とは、法令に別段の定のあるものの外資本の払戻又は利益の処分以外において純資産減少の原因となるべき一切の事実をいう。」(基本通達五二)と定義している。旧法人税法第九条にいう「総益金」および「総損金」という用語はその出典が不明であり、かつ、難解な字句であるが、右基本通達において使用するその他の用語は会計学にその出典を求めることができる。そこで、会計学の見地から、同法の予定する「所得」の概念を考えてみるに、右基本通達が「総益金」および「総損金」を定義するに当つてそれぞれ「資本の払込以外……」あるいは「資本の払戻又は利益の処分以外……」としるし、また、資本によつて調達された純資産の増減としてとらえ、右両者をともに資本に対比していることから明らかなように、旧法人税法は、「所得」の概念を資本に関連づけて定めているものといえよう。これをわかりやすくいえば、旧法人税法は、収益事業であると否とを問わず、内国法人の営むすべての事業の所得の有無は、その事業に投下された資本によつて調達された資産がある事業年度の経済活動の結果会計学的な見地からみて増加したかどうかによつて計算し、ただ、公益法人等については「収益事業」から生じた所得以外の所得はこれを非課税とすることにしているものということができよう。なお、この場合、資本とは自己資本だけを指すものではなく、他人資本(借入金等)を含むものである。

右に述べたところを要約すれば、旧法人税法第五条にいう「収益事業」とは、公益法人の行なう事業のうち、旧法人税法施行規則第一条の一一第一項各号に列挙するものと業種的な類型または外型標準を同じくするだけでなく、さらに、営利法人のようにその事業に投下された資本の増殖、いいかえれば、資本の払込み以外において純資産の増加をきたすように目的意識的に経営される生産的経済活動のすべてであるということができる。これを裏返していえば、営利法人の行なう事業と業種的な類型または外型標準を同じくするものであつても、営利法人のように反覆して行なわれるものでなかつたり、目的意識的に資本の増殖を企図するものでないことが客観的に認定または推認できるものは、旧法人税法の予定する「収益事業」以外の事業、むしろ単なる行事として課税客体から除外されるものであると解すべきである。

被告は、「収益事業」は収益目的を必要とするものではないと主張するに当つて、「業」一般について営利目的ないし収益目的を要素とするものでないことをその立論の根拠として挙げる。なるほど、「業」一般についていえば、営利目的ないし収益目的は必ずしもその要素ではないであろう。しかしながら、「収益」という修飾がつく事業であるかぎりは収益を得ようとする目的意識は不可欠である。

(ロ) 原告らの事業は右のような資本の増殖を目的意識的に企図して経営される生産的経済活動ではない。

法人税法の定める「収益事業」とは、右の叙述によつて明らかとなつたように、当該事業に投下された資本(他人資本を含む。)の増殖を目的意識的に追求する生産的経済活動をいうのであるが、原告らの行なう事業は会員が持ち寄つた会費の非生産的消費活動にすぎない。

まず、原告らの規約に即してこのことについてみてみよう。説明の便宜上、原告東京労音の現行規約(一九五九年五月二四日から実施のもの)を例にとつて述べる。

原告東京労音は、規約第二条に定められているように、各職場等における三名以上の音楽愛好者の集りを単位(サークル)として構成されている。そして、規約第六条には、目的として五項目が掲げられているが、それを要約すれば、働く者に対してよい音楽を安く聞く活動をおこそうという呼びかけに始まり、よい日本文化の創造育成に寄与しようと結語するものであるということができる。そして、規約第七条では、右第六条に掲げた目的達成の手段として、第一号から第六号までの具体的な事業活動を掲げ、これらの事業活動をすべて会員自身の運営により行なうと誓約的に書かれている。このところが原告ら各労音の骨格なのである。右規定は、利潤の追求を目的として営まれる興行師からのあてがいぶち的な曲目やマスコミの宣伝に依拠することによつては到底求められないものを会員相互の自主的な企画と運営によつて、みずからの手により創造し、かつ、享受しようと宣言したものである。かつて、労働者の手によつてよい音楽等を安く観賞するために、さまざまなプレイガイド的な事業が企画され実行に移されたことがあつたが、それらはすべて興業資本の経営の場に依存していたためさしたる発展をみなかつたし、また、そのほとんどのものは姿を消してしまつた。このような経験をふまえて創立したのが原告ら各労音であるし、原告東京労音もその流れをくむものである。しかしながら、会員はみな職場で働いている労働者であるので、その勤務時間外において右第七条に掲げる事業活動全般を実践することは、すべての会員のよくなしうるところではない。そこで、比較的時間に余裕のある者かまたは勤務時間外の時間をすべて労音活動に投入しても悔なしとする情熱家に常務を執行させようというのが役員等に関する第九条および第一〇条の規定である。役員等の任務は、会員が分担きよ出した会費および入会金を善良なる管理者の注意をもつて保管し、議決された用途に対し効率的に使用することである。しかも、役員の労音活動のために提供する役務がすべて無償であることは、他の収益事業一般の役員の場合と対照的である。

以上、原告東京労音の規約を例にとりつつ、原告らの規約に即してみてきたのであるが、これによつて明らかなように、原告らの行なう事業活動は音楽等を愛好する労働者が共同してよい音楽等をみずから上演しみずから観賞するために行なうものであつて、法人税法の予定する「収益事業」のように目的意識的に投下資本の増殖を追求するものではないのである。

このことは、原告らの収支が常にトントンであり、仮にある会計年度においていわゆる黒字があつたとしても、それは会員への会費の割当てが多すぎたかあるいはもつと費用を使つて活動すべきであつたのに少し遠慮したというだけであつて、その黒字分は次年度の費用として使用されるものであること、また、赤字があつたということは活動のために費用を使いすぎたというだけであつて、これは次年度の入会金や会費によつて支払われるものであることによつても明らかであろう。すなわち、原告らには、資本というものがなく、したがつて、資本の支出に対する剰余金あるいは所得とか資本の減少あるいは損失という観念はないのである。

(ハ) 被告は、原告らの例会の上演種目の決定は一般の興行において上演種目が主催者の独自の意思によつて決定されるものと異なるところがないと主張する。しかし右主張は事実に反する。すなわち、原告らの総会は毎年四月ころから六月ころにかけて開催される。この総会においてきたるべき一年間の運動方針が決定される。運営委員会や委員会が総会の準備活動に入るのは前年の一二月ころからである。委員会は、総会の準備のための討論がサークルや地域で行なわれるように諸種の機関紙を通じて資料を流す。サークルや地域で総会準備のための討論がはじめられるのは二月ころからである。サークルや地域での討議内容が委員会に反映されるのはもちろんである。例会活動も右の討論の対象となり、一年前から討論のときまでに行なわれた例会の内容が検討される。検討の基準は、勤労者の生活感情を基本としての上演作品の内容、表現のあり方、上演者の態度、例会参加者の態度等である。例会の内容は五段階に格付けされ、今後はどのような内容のものが上演されるべきか、上演者はだれにすべきか、表現のあり方はいかにあるべきか等が討論される。このような事前討議に基づき総会において運動方針が協議決定される。しかし、それは方針の決定であつて、上演種目や上演者そのものの決定ではない。総会の決定に基づき委員会が実践方針を討議する。それは例会の種目内容とその上演者につき多種多様な実践方針案として作成される。この案が各種の機関紙によつてサークルに流され、各会員に知らされる。かくして、右の案は各サークルや地域において討議され、そのサークルや地域の意見は組織を通じあるいはアンケートにより委員会に報告される。このサークルや地域の意見は集計されて、さらに各種の機関紙によつて各サークルに流される。再検討されたサークルや地域の意見が再度委員会に報告される。このようなことが何回か繰り返される。かくして、最終的に委員会が実践方針を決定する。委員会の決定した実践方針に基づき運営委員会が例会を具体化する。したがつて、運営委員会が総会の運動方針を右のように具体化するまでには、一般に総会後数か月を要するのである。以上に述べたところから明らかなように、原告らの例会活動の実態は原告らの会員の活動の全体、サークルから運営委員会までの諸活動の積重ねの全体をいうものであつて、個々の会員と別個独立に原告らが存在するものではないことが明らかであろう。したがつて、また、原告らの例会の上演種目の決定は一般の興行において主催者が独自に決定するのと異なることも明らかであろう。

(ニ) 被告は、原告らの例会会場の借入れや出演音楽家等との出演交渉は原告らの機関が原告らの名と責任においてするものであるから、一般の興行の場合となんら異なるところがないと主張する。しかし、原告らは人格がないのであるからその名において会場を借り受けたり、上演者と出演交渉することができないのであつて、これをなしうるのは原告らの会員の代理人である代表者らにすぎない。したがつて、被告の右主張も失当である。

(ホ) 被告が原告らの「会員の例会会場への入場について」として主張するところ(被告の答弁および主張第三項(一)、(3)、(ハ)参照)も事実に反する。

まず、被告は、会員は、入場を欲しなければ会費を納めずに自由に脱会できる仕組みになつているというが、会員が例会の内容によつて脱会することはまれであつて、大部分は会員の社会生活上のそれぞれの事情、例えば移転、転勤、女性会員の結婚等によるのである。

被告は、また、整理券を持参しなければ会員であつても例会会場に入場できず、逆に整理券さえ持参すれば会員でなくても入場できると主張する。しかし、整理券を持参しなければ会員でも例会に参加できないのが普通ではあるが、会員数の多くない労音では会員であることが確認できれば参加できることになつているところもある。原告らの中に会員でなくても整理券さえ持参すれば例会に参加できることにしているところはない。

被告は、原告らの例会の整理券の交付は一般の興行における前売券の発売となんら異なるところはなく、その交付がサークルの代表者を通じてなされる点は単に手数を省くための手段にしかすぎないという。しかし、原告らの会員がきよ出する会費は会員たる身分の取得および存続のための条件であつて入場の対価ではないから、いわゆる整理券は一般の興行における前売券ではなく、座席指定券の意味を有するにすぎない。また、サークルの代表者が会費を集め、これを事務局に届け、整理券の交付を受けることは、結果的には手数を省くことになるが、現実的にはサークル活動の重要な任務の一つである。

被告は、原告らの例会の上演種目の内容により会費の金額が異なると主張する。しかし、例会の内容によつて会費の金額が異なるのは例会の内容によりその例会を開催する費用が異なり、会員がきよ出する会費にはその会員が参加する例会開催用の分担金が含まれるからである。

しかも、この会費は、委員会や運営委員会が独自に決定するものではなく、総会やサークル、地域の意見に基づき委員会や運営委員会が具体化しているのである。

被告は、さらに、原告らは必ずしも固定的な会員によつて構成されているものではないと主張するが、大部分の会員は相当期間会員たる地位を継続してみずから労音の諸活動を推進しており、被告の右主張は事実に反する。

(2) 原告らは、収益事業を営む主体となることはできない。

前述のように、原告らは個人でも法人でもなく人格を有しないものであるから、収益事業を営む主体となることができない。なんとなれば、もし収益事業を営む主体となることができるものとすれば、原告らは法律的に人格者であるといわなければならないからである。

(3) 被告は、原告らが電蓄、レコード等を多数備えて希望者に使用料をとつて貸し付けていることは「物品貸付業」に当ると主張する。

しかしながら、「物品貸付業」とは、物品の所有者または所有者から物品の保管を依頼された者が不特定多数の第三者と賃貸借契約を締結して第三者にその使用収益をさせることを業とすることをいうのである。

ところが、原告らは人格なき社団であるから所有権を取得する能力がなく、財産権の主体となることができない。原告らの財産とみられるものは、法的には原告らを構成する会員全員の総有である。総有者たる会員がその総有財産を使用しうることは当然であり、それは所有者が自己所有の物を使用する場合と同様である。原告らの会員が電蓄およびレコードを使用する場合にいくばくかの金銭をきよ出するとしても、それは所有者が自己所有の物を使用する場合に買替え代金を確保するために使用の都度いくばくかの金銭を積み立てるのにひとして。原告らが会員以外の第三者に電蓄、レコード等を使用させることはない。したがつて、原告らの会員がその総有財産である電蓄およびレコードを使用することは「物品貸付業」に該当しない。

(4) 被告は、原告らが例会の演奏曲目についてプログラム解説パンフレツト等を製作して販売しているとしてこれは「出版業」に当ると主張する。

しかし、「出版業」とは、個人または法人が自己の計算において紙の購入、印刷をし、でき上つた印刷物を一たん自己の所有物として、それを第三者に売り渡すことを業とするものをいうのであるから、その法的構成は原告らの場合とまつたく異なり、被告の右主張は失当である。

(二) また、原告らは人格なき社団であるから、権利、特に財産上の権利を取得することはできない。したがつて、原告らは会員のきよ出する会費やいわゆる入場料金なるものの所有者となることはできない。これは、原告らの会員の総有するものであつて、原告らの代表者が会員の委任に基づいてこれを管理しているにすぎないのである。したがつて、旧法人税法第一条第二項が原告らに適用されるとしても、原告らは財産を所有することができないのであるから、法人税を徴収することは絶対にできない。すなわち、原告らを法人とみなして法人税法を適用することは法律上不能である。

(三) 旧法人税法第一条第二項の規定は憲法第三〇条、第八四条に違反し無効である。

日本国憲法は、第三〇条の規定により国民の納税義務の面から、第八四条の規定により徴税権者たる国家権力に対する制約の面から、租税法律主義の原則を規定している。そして、この原則は適正手続条項をも含むものと解されている。

ところで、租税法律主義の原則とは、納税義務者、課税標準、税率、納税の方法等につき疑問の余地のないまでに明確に法定し、税務担当の行政官の裁量によるし意をさしはさむ余地のあることを許さないとする原則である。

そこで、納税義務者について、各税法がどのように規定しているかをみてみることにする。まず、旧法人税法は第一条第一項においていわゆる内国法人および外国法人を納税義務者として明定しているが、これらの法人は、いずれもその事業活動が登記制度と不可分に結びつけられていて登記制度という公証的作用により納税義務者たることがなんぴとの目からも一点の疑いを容れる余地がない程度に明確化されている。また、昭和四〇年四月一日から施行された所得税法(同年三月三一日法律第三三号。以下、新所得税法という。)による全面改正前の所得税法(昭和二二年三月三一日法律第二七号。以下、旧所得税法という。)第一条第一項ないし第六項および相続税法第一条および第一条の二に規定する所得税および相続税の納税義務者も、戸籍制度、住民登録制度、外国人登録制度等の公証作用によりいかなるものが納税義務者であるかについて疑問の余地はないのである。

これに対し、人格なき社団は登記、登録等の方法によりその存在を明認することは全然できない。社会には、多種多様な人的結合体が存在し、その結合の態様、活動の状態は千差万別である。これらの多数の多種多様な存在のうちどれが旧法人税法第一条第二項の納税義務者に該当するかを右規定自体から導き出すことはできず、結局、税務担当の行政官のし意的な裁量によつて決める以外に方法はない。これは、法律の規定を見ただけで納税義務者を確定しうることを要請する租税法律主義の原則に違反するものである。

また、旧法人税法第一条第二項は、「法人でない社団又は財団で代表者又は管理人の定があり、かつ、収益事業を営むもの」を法人とみなしているが、いかなる法律に基づいて設立された法人とみなすのかは右規定上まつたく不明確であつて、その都度租税担当の行政官の裁量を加えないかぎりこの法条の適用は不可能である。納税義務者の人格が個々の行政官の裁量によつて左右されるような租税法規は租税法律主義の原則に違反して無効である。

したがつて、旧法人税法第一条第二項の規定は、憲法第三〇条、第八四条に違反し無効である。

(四) 旧法人税法第一条第二項の規定は申告納税制度と決定的に矛盾し、これを破壊するものである。

申告納税制度は、自己賦課課税制度ともいわれている。この申告納税制度のもとにおいては、納税義務者に関する規定は、当該納税義務者がこれを一読するだけでいわば条件反射的に直ちに自己が納税義務者であると自認し、所定の申告をなすべき義務のあることを素直に了承できるように明記されていなければならない。このことは、この制度に随伴する本来的かつ不可欠な属性なのである。なぜならば、租税法規にはすべて各種の行政罰および刑事罰が設けられているから、納税義務者が納税義務者に関する規定をその難解なるが故に、また、不明確なるが故に読みすごしてしまい申告を怠つた場合にどうなるかを想定すれば、その理由は明白である。したがつて、ある租税法規が申告納税方式をとる法制であり、納税義務者に申告を命じているにもかかわらず、納税義務者が申告を命ぜられていることを知るに由ないような規定があるとするならば、もはやその規定は申告納税方式と矛盾し相容れないものであるといわなければならない。

さて、旧法人税法は、その第四章における各規定により納税義務者に対して法人税に関して申告すべきことを命じているから、同法が申告納税方式をとつていることは疑いの余地がなく、また、旧法人税法施行規則第二四条第一項第一号、第二六条、第二八条の二第二号、第二八条の四第二号、第二八条の五第二号の各規定をみれば同法が人格なき社団に対しても申告書の提出を命じていることは明らかである。

ところが、さきに述べたように、旧法人税法第一条第二項に規定する人格なき社団は、法人一般が内国法人、外国法人の区別なく公簿の公証作用によりその存在を確認されるのとはまつたく異なり、登記、登録等の公証作用によりその存在を明認することが全然できないのであり、また、社会には多種多様な人的結合体が存在し、その結合の態様、活動の状態も千差万別であつて、これらの多数の多種多様な存在のうちどれが旧法人税法第一条第二項の納税義務者に該当するか、したがつて、どれが申告を命じられているのかが明らかでなく、申告を命じられている者も自己が申告を命じられていることを自覚することができないのである。

以上、要するに、旧法人税法第一条第二項の規定は申告納税制度と決定的に矛盾し、これを破壊するものである。

(五) 原告らは、叙上のような理由により、法人税の納付義務のないことを信じているのであるが、被告は第二項記載のような態度に出てこれを争つているので、法人税納付義務の存否につき原告らの法的地位に不安定を生じている。しかも、旧法人税法は法人税の納付義務の履行を確保するため行政罰および刑事罰(第四八条ないし第五二条)の制裁をもつて臨んでいるから、原告らは右のような法的地位の不安定の除去を求める緊急の必要がある。

よつて、各原告は請求の趣旨記載のような法人税を納付する租税債務の存在しないことの確認を求める。

四  被告の本案前の申立てに対する反論

別紙第二記載のとおりである。

第二被告の答弁および主張

一、本案前の申立ての理由

別紙第三記載のとおりである。

二、原告らの主張第一項(一)記載の事実および同第二項記載の事実はいずれも認める。同第三項記載の主張は争う。

三、原告らは旧法人税法第一条第二項の規定により法人税の納税義務を負うものである。

(一) 原告らが毎月会員から会費を領収して、毎月一回以上例会と称する音楽会等を開催して、会費の支払者を入場させ、音楽等を観賞させている行為は、旧法人税法施行規則第一条の一一第一項第二七号に掲げる「興行業」に当る。

(1) 旧法人税法施行規則第一条の一一第一項第二七号に掲げる「興行業」とは、映画、演劇、演芸、音楽、スポーツ、見せ物等の興行の業をいうものであり、興行の形態には、みずから劇団、楽団等を組織して興行主となつて行なう興行および他の劇団、楽団等を招致して興行主となつて行なう興行はもちろんみずからは興行主とはならないで他の興行主等との契約によりその興行主等のために行なう興行があるが、そのすべてを含むと解せられる(旧法人税法に関する国税庁長官通達昭和三四年八月二四日付直法一―一五〇「六、七」項参照)。

ここでいう「業」の解釈については、旧所得税法第九条第四項の事業所得の生ずる事業の範囲について、同法施行規則第七条の三第一二号が「前各号に掲げるものを除く外、対価を得て継続的に行なう事業」と規定していることからみれば、対価を得ることと反覆継続性とをその要件としていることは明らかであり、法人税法においても別異に解すべき理由はないから、旧法人税法でも「興行業」とは、興行を対価を得て継続的に行なう行為をいうと解すべきである。

(2) これに対し、「業」という以上、営利目的ないしは収益目的を要するとの説が考えられ、原告らもそのように主張しているが、かような目的を要素とするものではない。

(イ) そもそも、法人税法が法人税の課税対象としてとらえているものは、法人の所得であり、所得とは一定期間の純資産の増加を意味し、それがどのような原因によつて生じたものであるかを問わないものである。

すなわち、所得が公益を目的とする事業から生じたものであつても、また、所得が法人等を構成する株主、社員、組合員等の特定の者のみを取引の相手方として行なわれた事業から生じたものであつてもいやしくも純資産の増加があれば、ひとしく法人税の課税対象とするのが同法の建前である。

このことは、通常の法人の所得であれば、それが営利目的事業に由来するものでない所得、たとえば他人から法人へなされた贈与による所得等についても、ひとしく課税されることからも明らかであり、また、旧法人税法第九条第七項に掲げる法人、たとえば農業協同組合についてみると、同組合は農業協同組合法第八条に「組合は、その行う事業によつてその組合員及び会員(以下この章において組合員と総称する。)のために最大の奉仕をすることを目的とし、営利を目的としてその事業を行つてはならない。」と規定されているとおり、営利を目的として事業を行なうものではなく、しかも、同法第一〇条に規定されているとおり、その事業は組合員との取引を主たる内容としていることから、その事業の取引の相手方はほとんど組合員に限られるものであるが、その所得に対しては法人税が課税されることに照しても明らかである。

(ロ) 旧法人税法施行規則に収益事業として各種の「業」が列挙されたのは、昭和二五年政令第七〇号による改正に基づくものであるが、この改正の経緯に照らしても、「業」が営利目的を要素とするものでないことが明らかである。

すなわち、右の改正前においては、いわゆる公益法人については、その所得が公益を目的とする事業から発生するからという理由ではなく、その発生した所得が公益目的に使用処分されるという点に着目して、政策的見地から法人税を課税しないこととされてきたところ、シヤウプ報告によつて、その非なることが指摘されその発生した所得が事業の拡張あるいはきよう宴のために支出されていること、また、公益法人の所得でもその発生過程における事業活動が営利企業と競争関係に立つものであることから、その所得に対して、課税の公平という見地から法人税を課税するのが適当であるとされた結果、公益法人を非課税法人とすることが廃止されたものである。

公益法人がその目的とする公益事業の費用に当てるために通常行なつている財産の管理および運用その他の経済活動からみると、確かに右勧告において指摘しているとおり同種の経済活動を非公益法人(主として営利法人)が行なう場合には、法人税が課税されることとなるのに対し、これを公益法人が行なう場合に非課税で放置することは、両者の権衡上妥当を欠き、不公平な結果を招き、正常でない競争関係を容認することとなるのであつて、かようなことは負担の公平を第一義とする租税政策上の要請に著しく反するものである。

そこで、立法当局においては、公益法人が通常行なつている経済活動(それが公益目的で行なわれると否とにかかわりのないことは前記のとおりである。)について、その目的が営利であるか公益であるかにかかわらず、その活動の態様に着目して収益があがると認められ、かつ他の非公益法人の行なつている経済活動と競争関係に立つものを収益事業として列挙し、この列挙された事業の収益については、それが公益目的に使用されるか否かにかかわりなく、それに法人税を課税することとしたのである。(したがつて、このような列挙業種については、時の経過に従い、公益法人の経済活動の態様、規模等も異なつてくることがあるであろうから、必要な改廃が行なわれるべきであろうし、現に前記昭和二五年政令第七〇号による改正後も、しばしば改廃の立法措置がとられてきているところである。)

再言すれば、公益法人の所得が公益目的に使用されるであろうことは一応推認されるのであるが、それにもかかわらず、これに課税することとしたのは、その所得の処分の目的ではなく、主として、その所得の発生の起因である経済活動の態様に着目したからであり、この趣旨からして、公益法人の所得に対する課税をすべきか否かに関し、営利の目的といつた主観的要素をさしはさむことは無意味である。

かくして、公益法人の行なう事業が列挙業種に該当する限りは、法人税の納税義務が生ずる。(もつとも、列挙業種は公益法人の行なう事業の態様を前記のような意味で類型的にとらえたものであるから、それに具体的な課税所得があるかどうかとは別問題である。)

仮に原告らの主張するように収益目的のないものは収益事業にならないものとすれば、収益目的の有無を個々的に判定して、これによつて法人税の課否を決定することとなるから、その結果は課税がし意的、浮動的なものとなり、右の立法目的は実現され得ないことになる。旧法人税法は収益事業の範囲については政令で定めることとし、その施行規則第一条の一一においては同条第一項各号に掲げる事業が収益事業に該当する旨を定めているにとどまり、これらの事業のうち収益を目的として行なわれているもののみを収益事業とする旨の明文規定を設けていない。したがつて同項各号に掲げる事業はそれが収益を目的として行なわれているかどうかを問わず、すべて同法にいう収益事業であると解すべきである。

原告らは、公益法人等の多くが、その本来の公益事業遂行のための費用を得る目的で旧法人税法施行規則第一条の一一第一項各号に掲げる事業を営むのが通常であるから、そのような目的で行なわれる事業に限つて収益事業とすべきであると主張する。しかし、そのような目的で行なわれる事業が収益事業に該当することは否定しないが、同項各号に掲げる事業が常にそのような目的で行なわれるとは限らないから、そのような目的で行なわれるもののみを収益事業と解することはできない。本来の目的として行なわれる事業でも同項各号に掲げる事業に該当する以上、それも収益事業に該当するものと解すべきである。たとえば同項第三〇号において医療保険業を収益事業として掲記したうえ同号のかつこ書中において日本赤十字社の行なう医療保険業等を特に除く旨の規定を定めているが、このことからも、同法は公益法人等が本来の目的たる公益事業を公益を目的として、すなわち、収益を目的としないで行なつている場合であつてもそれを収益事業とする趣旨であることは明らかである。

(3) そこで、原告らが行なつているいわゆる例会活動の大要を述べれば次のとおりであり、その実質は、一般の興行となんら異なるところは見られないのである。

(イ) 例会の上演種目について

原告らには規約があり、原告らの機関、役員、事務局等についての定めがあり、原告らは法人でない社団で代表者の定めがあり、かつ継続して事業場を設けているものである。これを原告東京労音に例をとつて見れば、機関として総会、委員会、運営委員会、地域会議等があり、役員として委員長、副委員長、委員および監査委員が置かれている。また、原告東京労音の運営に関する一切の事務を行なうため運営委員会の統括のもとに事務局が東京都内に設けられており、事務局には事務局長および事務局員が置かれている。事務局員は同原告によつて雇用され報酬が支払われているが、事務局員は、昭和三二、三年ころは三〇名くらい、昭和三八年ころは五〇名以上のものが雇用されていたのである。

しかして、総会の議決事項について委員会が決定した運営方針を具体化し、その内容を決定するのが運営委員会であるが、運営委員会で具体化された運営方針を執行するため組織、宣伝、企画、事業および財政の五つの専門部がある。列会の上演を担当するのは、企画部である。各専門部には担当の事務局員がいて専門部員を補佐することになつている。以上述べたところから明らかなように、原告東京労音の例会活動の業務は運営委員会または専門部によつて担当され、事務局員がこれを補佐するという形式がとられている。

原告らの各月の例会において実施される上演種目は原告らの機関である運営委員会が、年次総会または委員会によつて決められた運営方針の大綱にしたがつて、適宜これを決定し出演音楽家舞踊家等との出演交渉を経て具体的に決められるものであつて、原告らの個々の会員が、みずから上演種目の決定に参画して、これを決定するものではない。したがつて、一般の興行において上演種目が主催者の独自の意思によつて決定される場合となんら異なるところはないのである。

もつとも、原告らは右の上演種目の決定に当つては会員からアンケートを徴するなどして会員の希望や嗜好を反映するように考慮を払つているが、それは決して原告らの個々の会員自身の意思により決定されるということを意味するものではない。このような配慮は原告らのみの独自の方法ではなく、広く一般の興行や企業においていわゆる市場調査等の名目でしばしば採られている手法である。すなわち、一般の興行や企業においても、顧客の獲得や商品サービスの売上増大に資するために顧客に対して質問表やアンケート票等を配付して回答を受け、右の顧客からの回答を参考として顧客の希望や嗜好をは握して合理的な経営を図るという方法が、広く行なわれているのである。

しかも、原告らの例会の上演種目は、オーケストラ室内楽、声楽、舞踊、喜歌劇、歌舞伎、落語などであり、一般の興行の上演種目とまつたく変りはないのである。

(ロ) 例会会場の借入れおよび出演音楽家との交渉について

原告らの例会にあてられる会場は、原告らの機関が原告らの名と責任において会場の所有者と賃借契約を結んで借り入れるものであり、また、原告らの名と責任において音楽家または舞踊家等を選定し(アンケートの結果を参考とすることもあろう。)交渉の上出演契約を結び、音楽家、舞踊家等に例会に出演してもらうこととしているのである。されば、会場の借入れ、出演音楽家等との出演交渉はすべて原告ら自身がその名と責任においてこれを行なつているのであり、個々の会員は、右の契約にはまつたく関知するところがないのである。したがつて、一般の興行において主催者が会場を準備し、出演音楽家に出演方を依頼する場合となんら異なるところはないのである。

(ハ) 会員の例会会場への入場について

各月行なわれている例会会場には、個々の会員は、次の手続を行なうことにより入場できることとされている。すなわち、前月中に翌月の例会の上演種目、上演日時、上演場所、上演物の内容などを紹介した機関紙、代表者ニユース、速報版等の印刷物が各サークルの代表者あてに届けられ、各サークルの代表者は、右の印刷物を所属のサークル員(会員)に配付して、翌月の例会の上演物の内容を周知させる。その他ポスター等を利用して一般に観賞を誘引する。会員は、右の印刷物によつて翌月の例会の上演物の内容を知り、みずから希望する上演種目と入場希望の日時を選択する。かくして、各サークルの代表者は、所属のサークル員(会員)の希望する上演種目と入場希望の日時を取りまとめ、これを例会申込用紙に記入の上、入場希望者全員から徴収した会費を添えて(新規に会員となる者は会費のほかに入会金も納めることになつている。)予約締切日までに事務局を通じて原告らに提出するのである。

事務局においては、右のようにして提出された全会員の希望する上演種目と入場希望日時を集計し、これを調整整理の上、各会員の入場する日時および座席を指定した整理券を作成し、これを会員に交付するのである。

会員は、かくして、右の整理券を例会当日に会場に持参し、この整理券により会場に入場し、上演物を観賞することとなるのである。また、各サークルに所属しない個人会員(新規のものを含めて)は、自分で直接事務局におもむいて、会費を納めて整理券の交付を受け、この整理券により例会当日に会場に入場し、上演物を観賞することとなるのである。

会員は、右に述べたような手続により例会会場に入場できることとされているのであるが、会員は、自己の希望する上演物を見たいときは右の手続により会費を納入し、整理券の交付を受けて入場することができ入場を欲しなければ、会費を納めずに自由に脱会できる仕組みとなつていること、すなわち、会員の入会および脱会は、会員の自由であつて、会員として入会するための特定の資格要件も必要としないこと新しくサークルに入れば労音に入つたことになるのであるし、また、職場の関係でサークルができないような事情にある農村の人とか、自由職業の人とか、商店の人とかそういう人でも希望すれば、個人会員としてどんどん会員となれる仕組みになつていること、会員が会費を納めなければ脱会したものとされ例会当日は入場できず、また、一か月でも会費を滞納すると会員たる資格を失い、翌月からは入会金と会費を納めなければ例会会場に入場できないこととされていること、整理券を持参しなければ会員であつても例会会場に入場できず、逆に整理券さえ持参すれば会員でなくても例会会場に入場できる実情にあることなどからみれば、会員の例会の予約および右の整理券の交付は一般の興行における前売券の発売となんらその実質を異にするところはみられないのである。サークルの代表者を通じてなされる点は、単に手数を省くための手段にしかすぎない。

のみならず、各月に行なわれる原告らの例会の会費についてみても、上演種目の内容によりその金額が異なり、一般にオペラ、バレエ、交響楽団等の場合は会費が高くなるのであるが(たとえば、原告東京労音の昭和三九年一二月の例会についてみると、会費は「バレエ、ロメオとジユリエツト」では三〇〇円、「朝鮮の歌と踊り」では二七〇円、「ピアノ独奏会」では一六〇円、「ウエスタン、フオークソング」では二〇〇円、「ナポリ、クインテツト」では三〇〇円となつている。)、これらの会費を決定するものは、原告ら自身であり、会員は単に決められた会費を納入して例会会場に入場するかどうかの選択の自由しか有しないのである。

以上述べたところから明らかなように会員は単に会費を納入し、整理券の交付を受けて上演物を観賞する単なる観客でしかないのであり、一般の興行において、主催者が入場する多数の者から対価を得て入場させ、上演物を観賞せしめる場合となんら変りはない。すなわち、例会に入場する者の実態についてみると、必ずしも固定的な会員によつて構成されているものではなく、各月とも入会者および脱会者の数はきわめて多く会員の構成がきわめて浮動的であり、その月一回限りの臨時的な会員も存在し、また、会員でない一般の観客も例会会場に入場し上演物を観賞している例もあるほか、原告らは、例会活動の宣伝等のために音楽家、音楽評論家および報道関係者を招待券により例会会場に招待して上演物を観賞せしめているという事実が見られるのである。したがつて、右の諸事実から判断すれば、原告らの例会における観賞者は、一般の興行場における入場者となんらその実質を異にするところはないのである。

原告らは、原告らの会員のきよ出する会費は、会員たる身分の取得および存続のための条件であつて、音楽舞踊を観賞するための入場の対価ではなく、会員は、音楽舞踊を観賞すると否とにかかわらず、会費をきよ出する義務があり、原告らの会員のうちには、会費をきよ出するにもかかわらず、音楽舞踊を観賞しないものもあると主張する。

しかし、一般の興行における前売券においても、前売券の所持者が自己の都合により興行場に入場しなかつたときは、当該前売券の払いもどしはなされないのが通例であるし、また、原告らの例会においても、例会の開催が中止となつたときは会費の払いもどしが行なわれているのであつて、右の原告らの主張は理由のないものであるといわなければならない。のみならず、原告らの例会においては、会場の座席のよしあしによつて、会員の納める会費が差別される場合もみられるのであり、このことからみても会費は入場の対価であるといえるのである。

(ニ) 会場費、出演料等の支払について

前述のように原告らの会員から原告らに対して例会会場への入場の対価として会費が納入されるのであるが、原告らは、右の納入された会費の中より例会会場費、出演音楽家舞踊家への出演料、事務所の家賃、事務局員の給料等を支払つており、個々の会員は、右の支払についてなんら関知するところはない。

このことは、一般の興行において興行の主催者が入場の対価として入場者から領収した入場料金より興行に伴う各種の費用(会場費、出演料、事務員の給料等)を支払い、入場者は右の費用の支払についてなんら関知するところがない場合と同様である。

しかして、原告らは、各会計年度の右の例会の開催に伴う決算収支を管理し、個々の会員としては右の決算収支については、なんらの関心も示さない状況にある。しかも、各会計年度において仮に余剰金が生じたからといつて余剰金の分だけ次回の例会の会費が安くなるということもないのである。したがつて、右の原告らの例会の実態は、もはや原告らの主張するように会員各自が音楽舞踊を上演し、会員各自がこれを観賞するものであるとは到底考えられないのである。

(二) 原告らは右のような興行業のほか次のような事業をも営んでおり、これらはいずれも法人税法にいう収益事業にあたる。

(1) 電蓄、レコード等を多数備え付けて、希望者に使用料をとつて貸し付けていることは「物品貸付業」に該当する。

(2) 例会の演奏曲目についてのプログラム、解説パンフレツト等を製作して販売していることは「出版業」に該当する。もつとも、旧法人税法施行規則第一条の一一第一項第一二号は「出版業」を掲げ、そのかつこ書において「特定の資格要件を有する者を会員とする法人が会報その他これに準ずる出版物を主として会員に配付するためになすものを除く。」旨を定めているが、原告らは特定の資格要件を有する者を会員としているものではないから、この除外規定にはあたらない。

けだし、「特定の資格要件」とは特別に定められた法律上の資格要件、特定の過去の経歴からする資格要件その他これらに準ずる資格要件を指し、単に年令、性別等が同じであるとか趣味またはし好が同じであるとか、会費を納入しさえすればだれでも会員となりうるとかいう場合には、ここにいう「特定の資格要件」には当らないものというべきであるからである(旧法人税法に関する国税庁長官通達昭和三二年八月一九日付直法一―一三〇「二一」項参照)。

(三) 以上のとおり、原告らは、興行業、物品販売業、出版業等の収益事業を営むものであるから、旧法人税法第一条第二項の規定により法人税の納税義務があるといわなければならない。

(証拠関係)<省略>

理由

一、原告らは、本訴において、原告らが昭和三二年四月一日(ただし、原告東京労音については、昭和三四年四月一日)以降本件口頭弁論終結の日までの期間につき法人税を納付する租税債務を有しないことの確認を求めているが、右のような訴えがいかなる性質を有し、行政事件訴訟法に規定するどの訴訟類型に属するものとみるべきかは問題である。すなわち、本訴の本質を具体的な金銭債務化した法人税債務の不存在確認を求めるものとみるか、または、原告らが法人税法上法人税を課税されるべき法的地位を有しないこと、換言すれば、被告が原告らに対し法人税を課税する権限を有しないことの確認を求めるものとみるかによつて、訴えの性質が異なつてくる。前者とみるならば、本訴は行政事件訴訟法第四条後段の「公法上の法律関係に関する訴訟」、すなわち、実質的当事者訴訟に当り、後者とみるならば、本訴は同法第三条に規定する「行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟」、すなわち、抗告訴訟の一種(無名抗告訴訟)に当ることになる。

原告らが本訴を右のいずれの性質を有するものと考えて訴求しているのかは必ずしも明白であるとはいいがたいが、その主張から推測すれば、前者の性質を有するものと考えているようにうかがわれる。しかし、本訴が右のいずれの性質を有するものであると解するにせよ、本訴は次に述べるような理由により不適法である。

二、まず、本件訴えが実質的当事者訴訟の性質を有するものであると仮定して考えてみよう。

確認訴訟における確認の対象は原則として一定の具体的な権利ないし法律関係の現在における存否である。将来発生すべき権利ないし法律関係なるものは、具体的な権利ないし法律関係として現在するものとはいえない。したがつて、たとえそのような権利ないし法律関係の将来における成否について法律上疑問があり、これに関して現在当事者間に争いが存しても、確認の対象とするには適しないものといわなければならない。しかして、確認訴訟の対象が右のように具体的な権利ないし法律関係であることを要することは、司法権の本質が具体的な法律上の争訟の解決に存することに徴して容易に理解しうるであろう。

そこで、原告らが本訴において不存在の確認を求める法人税債務が、確認訴訟の対象となりうる具体的な権利ないし法律関係といいうるか否かについて検討する。

一般に、法人税の納税義務は事業年度終了のときに成立し(国税通則法第一五条第二項第三号)、納税者からの申告または税務署長の課税処分によりその税額が確定するものとされている(同法第一五条第一項、第一六条、旧法人税法第一八条、第二一条、新法人税法第七四条)。ところが、原告らが本訴において確認の対象として主張するものは、その主張から明らかなように、右のような申告または課税処分によつて税額の確定する以前の法人税の納税義務である。このような申告または課税処分によつて税額の確定する以前の法人税義務が果して確認訴訟の対象たりうる具体的な権利ないし法律関係といいうるであろうか。否である。

すなわち、右に述べたように法人税の納税義務は事業年度の終了の時に成立するのであるが、その段階においては右納税義務の内容は法人税法上当然にその金額を計算しうるほど客観的に確定したものではない。まず、法人は事業年度の終了とともに決算の確定という作業をしなければならない。事業年度の終了によつてその事業年度中に行なわれた多くの取引、特に外部取引は固定されるが、そのままでは損益は計算できず、各勘定科目、仮勘定科目等の整理をしなければならない。また、法人の内部においても、たとえば固定資産の減価償却(商法第二八五条ノ三参照)、各種引当金の計上(同法第二八七条ノ二参照)、前期損益の繰越し、繰延資産の償却(同法第二八六条ないし第二八七条参照)等の操作を行なわなければならず、しかも、これらの操作は単に法律の規定に従つて計算されるものではなく、多分にその法人の意思によつて左右される余地のあるものである。そして、法人は右のような計算をした後これを株主総会等法人の最高決議機関にかけてその承認を求めなければならず、その承認を受けてはじめて決算は確定する。法人税の確定申告はこの確定した決算に基づいてなされるべきものである(旧法人税法第一八条、第二一条、新法人税法第七四条、第七五条)が、右申告をするについては法人税法上の損益修正が権利として認められまたは義務付けられていて、しかも、その少なからざるものは法人の意思に委ねられている。たとえば、前記の具体例についていえば、固定資産の減価償却については法人が当該事業年度の確定した決算において償却費として損金経理をした金額全額が当該事業年度の所得の計算上損金に算入されるものではなく、右金額のうち当該法人が選定した償却方法に基づき法令で定めるところにより計算した金額に達するまでの金額であり(旧法人税法第九条の八、同法施行規則第二一条、第二一条の二、三および六、同法施行細則第三条ないし第八条、新法人税法第三一条、同法施行令第四八条、第五八条等参照)、各種の引当金も法人が当該事業年度の確定した決算において引当金勘定に繰り入れた金額全額が当該事業年度の所得の計算上損金に算入されるのではなく、原則として法人が確定申告書に引当金勘定に繰り入れた金額の損金算入に関する明細を記載することを条件とし、かつ、法令の定めるところにより計算した金額の範囲内において損金算入が認められるにすぎず(旧法人税施行規則第一四条の二二ないし二四、第一五条、同条の六、七、同条の一三ないし一五、新法人税法第五二条ないし第五六条、同法施行令第九六条ないし一一三条等参照)、また繰越欠損金も無条件に損金算入を認められるものではなく、法人が政府の承認を受けて青色申告書である確定申告書を当該欠損金の生じた事業年度以降連続して提出していることを条件とし、かつ、一定の範囲内の金額を限度とするものであり(旧法人税法第九条第五項、第六項、同法施行規則第六条第二項、第九条の二、第一〇条、新法人税法第五七条、第五八条、同法施行令第一一四条ないし第一一六条参照)、繰延資産の償却費も法人が当該事業年度の確定した決算において償却費として損金経理をした金額のうち法令で定めるところにより計算した金額の範囲内において当該事業年度の所得の計算上損金算入が認められるにすぎないのである(新法人税法第三二条、同法施行令第一四条、第六四条ないし第六七条参照)。法人がみずから右のような決算の確定、申告という手続をしない場合には、税務署長がその調査したところに従い法人に代わつて決算の確定と同様の操作をした上で、当該事業年度の所得金額を計算し、税額を決定するのである。右に述べたところから明らかなように、法人税の納税義務は国税通則法上事業年度の終了の時に成立するものとされてはいるが、その段階においては税額を確定し得ず、金銭債務としての具体的な内容を有するものとはいえないのである。すなわち、法人税の納税義務は、申告または課税処分によつて税額が確定されはじめて金銭債務として具体的な内容を有するに至るのである。したがつて、法人税の納税義務は、申告または課税処分によつて税額が確定されてはじめて具体的な金銭債務として現在するに至るものであり、それ以前においては具体的な金銭債務として観念する余地はないものと解するのが相当である。

もちろん、このことは、事業年度の終了後も申告または課税処分がなされるまでは、法人税の納税義務者と課税権者たる国との間に法人税に関しいかなる法律関係も存在する余地がないということを意味するわけではない。事業年度の終了によつて、法人の当該事業年度の所得金額の計算の基礎となる取引、特に外部取引が固定されるし、法人は税務署長に対し事業年度終了の日から二か月以内に決算を確定してこれに基づき確定申告書を提出し、かつ、確定申告書に記載した法人税額に相当する金額の法人税を納付しなければならず(旧法人税法第一八条、第二一条、第二六条、新法人税法第七四条、第七七条)、正当な理由がなく右の申告書の提出を怠つたときは無申告加算税を課される(国税通則法第六六条)ほか刑罰の制裁もあり(旧法人税法第四八条の二、第五一条、新法人税法第一六〇条、第一六四条)、また、法定納期限までに法人税を納付しないと延滞税が付加されることになつており、他方、国の課税官庁である税務署長は納税者の財産につき強制換価手続が開始された等の事由があり申告または課税処分によつて税額の確定されるのをまつていたのではすでに納税義務の成立した法人税の徴収を確保することができないと認めるときは、法定の申告期限前にその確定すると見込まれる法人税額のうちその徴収を確保するためあらかじめ滞納処分を執行することを要すると認める金額を決定し、その金額を限度として直ちにその者の財産を差し押えることができ(国税通則法第三八条第三項、第四項)、また、法人が法定の申告期限までに確定申告書を提出しないときは当該事業年度の所得金額および税額を決定することができるのである(同法第二五条)。右のように、事業年度の終了によつて法人税の納税義務者と課税権者たる国との間には諸種の法律関係が発生するのである。国税通則法が法人税の納税義務は事業年度の終了のときに成立すると規定したのは、右のような納税義務者と国との間の法律関係を納税義務者の側から観察して規定したものであると解される。しかし、右の法律関係は、右に述べたところから明らかなように、国の課税権に基づき優越的な立場において公権力の発動として行使される税務署長の権限とそれに対応して課せられている納税義務者の義務とからなるものであり、それは具体的な金銭債務としての法人税債務ではないのである。したがつて、右の法律関係(納税義務)の存否に関する訴訟は、とりもなおさず、税務署長(国の課税権限の存否をめぐる訴訟(抗告訴訟の一種)の実質を有することになり、単なる「公法上の法律関係に関する訴訟」(実質的当事者訴訟)とみることはできない。仮に本件訴えがかかる意味における納税義務の不存在確認を求めるものであるとするならば、それは抗告訴訟の性質を有することになるが、その不適法なことは次項に述べるとおりである。

以上に述べてきたところから明らかなように、納税義務者からの確定申告または税務署長の課税処分によつて税額が確定される以前においては具体的な金銭債務としての法人税債務の存在を考えることができないのであるから、本訴を具体的な金銭債務としての法人税債務の不存在確認を求めるもの、すなわち、実質的当事者訴訟とみた場合には、本訴は確認の対象たる具体的な権利ないし法律関係を欠くものとして不適法であるといわなければならない。

三、次に、本訴が原告らが法人税法上法人税を課税されるべき法的地位を有しないこと、換言すれば、被告が原告らに対して法人税を課税する権限を有しないことの確認を求めるもの、すなわち、無名抗告訴訟の性質を有するものであると仮定して考えてみよう。

原告の本訴請求は、その主張によつて明らかなように、被告のなした具体的な課税処分についてその適否、すなわち、被告の課税権限の存否を争うものではなく、具体的な課税処分を前提とせずその以前の段階において一般的に被告の原告らに対する法人税の課税権限の存否を争うものである。

しかしながら、右のように具体的な行政処分のなされる以前に行政庁の処分権限の存否を訴訟によつて確定することが許されるであろうか。

日本国憲法のもとにおいては、裁判所は、憲法に特別の定めがないかぎり、一切の法律上の争訟について裁判をする権限を賦与されており、なんぴとも一切の法律上の争訟について裁判所の裁判を受ける権利を保障されている。したがつて、行政権の行使をめぐつて具体的な法律上の紛争が存する場合には、これにつき裁判所の判断を求めうることはいうまでもない。しかしながら、前説明のとおり、法人税については納税義務者と課税権者たる国との間には、事業年度の終了によつて諸種の法律関係が生ずるのであるから、そのような法律関係の有無をめぐる紛争は、具体的な法律上の紛争であり、裁判所の判断を求め得る資格のある法律上の争訟であるといえるとしても、そのような法律関係の存否、言葉をかえて言えば、原告らが法人税を課せられるべき法的地位の存否または国の原告らに対する法人税課税権限の存否をめぐる紛争について、行政庁(税務署長)の判断が示される前の段階においても常に訴えによつて裁判所の裁判を求め得るものとしなければ、憲法違反になるということを意味するものではなく、そのような訴えを許さないものとしても右のような具体的な法律上の紛争についての判断権がなんらかの形で裁判所に留保されているかぎり、司法権による国民の権利救済の道が閉ざされたことにはならず、憲法違反の問題は生じないのである。したがつて、立法は、たとえ当事者間に具体的な法律的紛争が存在する場合でも、行政庁による高権的な判断が示される前の段階においては、その間の法律関係の存否の確認の訴えを許さないものとすることもできるのであつて、その意味で、行政処分をめぐる具体的な法律的紛争のどの段階でどのような訴訟形態による司法審査を求め得ることとするかは立法政策の問題といえるのである。

そこで、この点につき、わが現行法制上いかなる建前がとられているかをみるに、行政事件訴訟法は、行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟を抗告訴訟として認め、具体的には、処分の取消しの訴え、裁決の取消しの訴え、無効等確認の訴えおよび不作為の違法確認の訴えの四つの訴訟形式をあげているが、右のほかの訴訟形式を認めないのかどうか、認めるとしてどのような訴訟形式が認められるのかについてはなんら明らかにしていない。しかし、同法が取消訴訟を抗告訴訟の中心にすえていること、法令に基づく申請に対する行政庁の不作為に対する救済手段として不作為の違法確認の訴えを設けるにとどまつていること等を合わせ考えると、わが国の現行法の建前は、行政庁により行政処分がなされる以前に裁判所が訴訟手続で行政庁と国民との間の権利義務の存否を確定することはこれを原則として許さず、行政庁の処分権限の存否については行政処分がなされた後にその処分権限行使の適否を取消訴訟あるいは無効等確認訴訟等の形式で裁判所に判断させることとしているものと解される。もつとも、国民の権利、利益を行政権の違法な侵害から救済することを司法権の任務の一つとしている憲法の趣旨と行政事件訴訟法第三条の規定の仕方とから考えれば、同法も国民の権利、利益を行政庁の違法な侵害から守るために必要不可欠であるかぎり、かならずしも右の四つの訴訟形式のほかの訴訟形式(無名抗告訴訟)を否定するものではないと解するのが相当である。したがつて、国民の権利、利益を救済するために必要不可欠と認められるかぎり、行政庁により行政処分がなされる以前においても、裁判所は行政庁の処分権限の存否について判断する権限を有しているものというべきであろう。しかしながら、さきにも述べたように現行法の下においては裁判所は行政処分がなされた後に行政庁の処分権限行使の適否を判断することが原則的な建前とされているのであり、右のように行政処分のなされる以前に裁判所が行政庁の処分権限の存否について判断することが許されるのはきわめて例外的な場合なのであるから、裁判所が行政処分のなされる以前に行政庁の処分権限の存否について判断するためには、行政庁が一定の行為をなしまたはなすべからざることが法律上き束されていて、係争の処分権限を行使すべきか否かが行政庁の第一次的判断を重視する必要がない程度に明白であり、かつ、行政庁の行政処分がなされるのをまつて取消訴訟等を提起したのでは国民の権利、利益の救済をなし得ず回復しがたい損害を生ずるというような緊急の必要性があると認められることを要するものと解すべきである。

そこで、本件訴えが右の要件を具備するものであるかどうかについてみるに、旧法人税法第一条第二項および新法人税法第二条第八号、第三条、第四条は法人でない社団または財団で代表者または管理人の定めがあり、かつ、収益事業を営むものは法人税の納税義務があると規定しているが、ある社会的な存在としての団体が人格なき社団で代表者または管理人の定めがあるものといえる程度の組織ないし実体を備えたものと認めうるかどうか、また、その営む事業が収益事業に該当するものといえるかどうかについては税務官庁の専門技術的見地からする認定の余地がないとはいえず、この点につき常に税務官庁の第一次的判断を重視する必要がない程度に結論が明白であるとはいいがたい。もつとも、本件の場合、各所轄税務署長が原告らに対しその主張のような報告事項の報告および書類の提出を求め、かつ、原告らのうちの一部のものに対しては原告ら主張のような「お知らせ」と題する文書を送付したことは当事者間に争いのないところであるが、右は、昭和三二年三月三一日法律第二八号により旧法人税法に第一条第二項が付加され人格なき社団で代表者または管理人の定めがあり、収益事業を営むものにも法人税の納税義務が課せられることになつた際に、被告が各所轄税務署長を通じて原告らに対し被告側の一応の見解を示し、合わせて法人税法上の義務の履行を求めたものにすぎず、いわゆる行政指導といわれるものの一種であつて、公権力の行使としてなされたものではないと解せられるから、右のような事情があるからといつて、もはや税務官庁の第一次的判断権を尊重する必要がないということはできない。のみならず、本訴においては、各所轄税務署長の課税処分をまつてこれに対して取消訴訟を提起したのでは、原告らの権利、利益の救済が得られず、回復しがたい損害が生ずるというような緊急の必要性があるものとも認められない。もつとも、法人税法は法人税の納税義務の不履行に対して、前記のように、加算税、延滞税等を課しあるいは刑罰を課することとしているが、これは法人税の納税義務の法定の期限内における適正な実現を担保し、合わせて、法定の期限内における適法な納税者との権衡を図るために設けられた附随的な制度であるばかりでなく、かかる不利益はそれ自体必ずしも回復しがたい損害を生ずるものではなく、特に原告らがもしその主張のように法人税の納税義務を負うものではないとすれば、原告らは、将来税務署長から課税処分を受け、または、刑罰の制裁を科せられた段階において、納税義務の存否を争つてその権利、利益の救済を受けることができるのであるから、右のような不利益をこうむるおそれがあるとしても、各所轄税務署長の課税処分のなされるのをまてないほど緊急の必要性があるものとは認められない。

そうであるとすれば、本件訴えが無名抗告訴訟の性質を有するものと考えた場合にも、本訴は、例外的に事前的司法審査を求めうる場合に当らず、不適法であるといわざるを得ない。

四、以上のとおりであるから、本件訴えは、これを具体的な金銭債務としての法人税債務の不存在確認を求めるもの(実質的当事者訴訟)とみるにせよ、あるいは被告が原告らに対し法人税を課税する権限を有しないことの確認を求めるもの(無名抗告訴訟)とみるにせよ、いずれにしても不適法である。

よつて、本件訴えは不適法として却下することとし、訴訟費用については民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 位野木益雄 高林克巳 石井健吾)

(別表省略)

(別紙第一省略)

(別紙第二)

被告は行政処分のなされない前においては公法上の法律関係についての確認訴訟は許されない旨を主張する。しかしながら、この見解は理由がない。

一、被告は右の結論の前提として、まず、「行政処分前は行政処分という行政法の具体化、したがつて、法に定められた法律要件の実現、ひいては、法律効果の発生、変更、消滅はあり得ず、特定の公法上の権利、義務ないし法律関係と目すべきものは存在しない。」となし、「たとえば、契約をする前の私法上の当事者間の関係と同様で、なんら行政権と国民との間には権利、義務ないし法律関係として具体化したものが存在しない。」旨主張されている。

しかし、右の前提は誤りである。

二、私法上の契約あるいは行政処分によつて法律効果が生ずるにせよ、それ以外にも一定の要件事実の発生があれば法律効果は生じ、権利または法律関係は発生しまたは消滅する。それは必ずしも抽象的な権利に限らず、具体化された権利義務も発生する。たとえば、私法上は被相続人の死亡という事実により相続が開始し、一定期間の経過により時効が完成する。

人の出生、死亡、外国人の本邦への入国という事実はそれぞれ届出や登録申請の義務を生じ、遺失物拾得者は拾得という事実により警察署長に差し出すべき義務を生じ、使用者は常時十人以上の労働者を使用することを要件として就業規則作成義務および届出義務を生じる。これは決して抽象的な公法上の義務でなく具体的な義務である。さらに、労働者災害補償保険法第三条該当者は、その事業に該当するに至つた日に、その事実を要件として報告ならびに一定の金額を納付する義務を生じ、事業主は五人以上の労働者を雇用することを条件に申告ならびに失業保険料を政府に納付する義務を生じる。これらも抽象的納付義務ではなく具体的義務である。

さらに、被告の主張によれば、相続税の納税義務は、具体的には相続または贈与という事実によつて発生するものではなく、申告または決定により始めて納税義務が発生し、あるいは申告または決定のない限り利子所得、配当所得、給与所得の支払をなす者は具体的に所定の税額を源泉徴収する義務もないし、政府に納入する義務もなく、単に抽象的義務が存するにすぎないということになる。しかし、これらの義務は抽象的義務というより具体的な義務と称して一向にさしつかえないであろう。けだし、一定の要件事実により一定の作為義務が現実に生じているからである。

三、被告は、申告または決定により始めて具体的納税義務を生じるのであつて、その前は単に抽象的納税義務が存在するにすぎないとされる。しかしながら、被告のいうこの意味の抽象的納税義務はむしろ訴訟の対象となる納税義務そのものである。

すなわち、申告または処分により確定する(国税通則法第十七条)という意味は、国から見れば単なる見通しないし見込みという程度の期待権が確定により始めてこれが現実の租税納付義務が生じるということではなくして、課税原因の発生と共に納税義務は具体的に発生し、この義務(国からいえば権利)が一定の手続の中で具体的法として生成発展してゆく過程と見る方が正しいであろう。民事訴訟における私権の場合を考えれば次のような発展段階が考えられる。

(便宜上、債権、請求権、執行権という用語を用いることとする。)

第一段階 債権(単に債権が客観的、観念的に存在し、静止している状態)

第二段階 請求権(具体的に活動を開始し、生成過程中の既判力として訴訟において具体的法としての判決を目指して発生しつつある動的状態)

第三段階 執行権(具体的法としての債務名義の成立後の状態)(兼子一、民事法研究第一巻中「訴訟承継論及び請求権と債務名義」参照)

右の段階についての税法の納税義務の具体化について考察すれば、国税通則法第一五条が規定するように法人税の納税義務は事業年度の終了により、また、相続税の納税義務は相続税法において課税原因として規定された事実の発生により、それぞれ、右第一段階の納税義務として発生する。国税通則法第一六条以下の決算に基く二カ月以内の申告あるいは決定のための手続は右第二段階に該当するものと考えられる。被告のいう賦課権(これも調査という手続が必要である。)もこの段階として考えられる。

被告のいわゆる徴収権は前記第三段階の具体的に執行をなしうるに至つている発展の窮極の権利である。

四、右のごとく考えられるのであつて、被告は第一段階の権利を抽象的権利となすもののごとくである。

これを抽象的権利と呼ぶか具体的権利と呼ぶかは言葉の問題ではあるが、具体的義務と称した方が誤解を避けるために適当であろう。しかしながら、被告が一定の手続の後に行なわれる申告または現実の賦課処分が存在し、前記第三段階の具体的法としての徴収権の発生した段階でなければ訴訟の目的となり得ないとなすのは明らかに誤りである。

行政訴訟の特殊性はそこまで訴訟物を制限していると解すべきではないからである。

五、新憲法の精神を受けて作られた裁判所法第三条は「裁判所は、一切の法律上の争訟を裁判する権限を有する。」となし、さらにこの趣旨で行政事件訴訟特例法では「公法上の権利関係」に争いのある場合にも裁判所に出訴できることとした。

これによつて、公法上の権利関係につき争いが存する以上、具体的な行政処分のなされない以前においても、訴えの利益のある限り、裁判所は右権利関係の存否を確定し、司法上の救済を与えることができることになつたのであり、かかる裁判の結果行政権が拘束を受けることがあつても法治主義の建前からいつて当然のことであつて、三権分立の原則に反することはないのである。そして、「一切の法律上の争訟」について裁判所への出訴を認める新憲法や裁判所法の趣旨からいつて、右の「公法上の権利関係」に関する当事者訴訟から私法の分野で一般に認められている債務不存在確認訴訟をことさらに排除すべき理由はない。民事上この訴えが許されるのはもちろん法律上の争訟であるからであつて、被告のいうごとく債務不存在確認訴訟が「法律上の争訟」性を有しないということは、まつたく理由のないことであるし、また三権分立の原則を考慮した上で裁判所法は「一切の法律上の争訟」について裁判所に訴える道を開いているのであるから、少なくとも「法律上の争訟性」を有する限り裁判権が与えられているといわなければならない。

六、被告は本件のごとき訴訟を許せば、その範囲は無限に拡大し、収拾がつかなくなるとして三つの例をあげ、たとえば、在日外国人はあらかじめ退去を強制される義務のないことの確認を求めることができるようになり、医師があらかじめ医業を停止される義務のないことの確認を求めることができることとなり、あるいは、犯罪として処罰される義務のないことの確認訴訟が許されることとなるといわれる。

しかし、この三つの例を同種の例としてあげるのは正しくない。犯罪の処罰義務不存在確認訴訟が認められないのは、犯罪の捜査、処罰等については特別法である刑事訴訟法があり、一般法たる行政事件訴訟法が排除されるからである。

在日外国人の強制退去義務の不存在、あるいは医師の医業を停止される義務の不存在確認は、確認の利益さえあれば裁判として認めて、一向にさしつかえのないことである。たとえば、薬局の設備が完全であると考えられるにもかかわらず、保健所よりこれを不備として薬局の改造をしなければ医業を停止させる旨の事実上の勧告がしばしば行なわれたとき、医療停止の行政処分を待つことなく、その義務不存在の確認訴訟を起すことは少しもさしつかえないであろう。強制退去義務不存在の場合も同様である。かかる場合、裁判権が無限に広がり収拾することができなくなるのは確認の利益を無視するときのことである。被告は争訟性の事項と確認の利益を混同している。被告のあげる判例も即時確定の必要性、すなわち、確認の利益がないと考えられる場合の事実である。

七、原告らが行政罰や刑事罰を受ける危険にさらされていることを即時確定の利益があると主張するのに対し、被告は「課税処分により抽象的納税義務とは別個の金銭債権を形成し、刑事処分によつて抽象的納税義務とは無関係に刑罰権を確定するのであり、国は賦課権能を行使しうるが、それは金銭債権を形成する行政処分として発動するのであつて、抽象的納税義務そのものとは別個である。権利、義務ないし法律関係の不安除去という場合には、それ自体の不安除去でなければならないのであつて、それと別個の権利、義務ないし法律関係の設定がなされることをもつて、右にいわゆる法的不安の除去というわけにはいかない。」となし、確認の利益がない旨主張される。

しかし、課税処分または刑事処分と抽象的納税義務(被告の称するところに従つた用語の)とは、そのいわれるごとく無関係なものではない。課税処分も、刑事処分も、この抽象的納税義務がなければ存在せず、課税処分または刑事処分は抽象的納税義務の有無いかんによつて、これと運命をともにするものである。また「国は賦課権を行使しうるが、金銭債権はこれにより、形成され、そこで形成される金銭債権は抽象的納税義務とは別個である」どころではなく、そこで形成される債権は、客観的に存在し、静的状態にある権利そのものを手続的に確定し、動的状態に移したものにすぎず、被告のいわれる抽象的納税義務(債権という方が妥当か?)そのものの現象形態にすぎないのである。かかる意味で「権利、義務ないし法律関係の不安除去という場合は、それ自体の不安除去でなければならない」といつたところで、それは抗告訴訟以外に当事者訴訟における債務不存在確認訴訟は許されないということの同義異語にすぎない。課税処分があれば、権利はその発展段階の面で処分前とは異なつている。しかし、課税処分前の段階における権利義務の存否の確認訴訟が許されるか否かということがここで問題になつているのである。

処分の前と後では権利義務はその現象形態を変えるだけでその本質は前後同一なのであつて、被告のいわれるごとく無関係、別個のものではない。しかも、原告らは、将来の納税義務を問題にしているのではなく、被告が法定申告期限経過後とみなしてしばしば申告、ならびに納税を催促している納税義務を問題としているのであるから、これを確認の利益がないとするのはまつたく理由のないことである。

八、原告らが本訴で求めているところは、昭和三二年四月一日以降本件口頭弁論終結の日までの間における法人税債務の有無である。通常債務不存在確認訴訟では、債務を特定するために金額および発生原因を請求の趣旨に表示することになつているが、それはまつたく債務を特定するためである。しかし、本件では毎事業年度に一回だけ発生するのであつて債務額を表示しなくても発生原因さえ表示すれば特定性に欠けることはない。被告は債務額が表示されていないことから、本件訴えを抽象的な義務をとり上げたと感じているかもしれないが、本件の訴えの債務は決して将来の期待権というようなあるいは単なる主観上の不安除去を欲する程度のものでなく、現に過去において被告が原告らに作為義務があることを前提として行為を求めている債務なのであつて、決して単なる抽象的な義務ではないのである。

九、大阪労音について。

被告の主張するところによれば、適法に提起された国に対する租税債務不存在確認の訴えは、国の行政庁が任意に課税処分をなすことにより、随時これを不適法とならしめることができることとなる。かくては、訴えを不適法とならしめるか否かは、一にかかつて被告に所属する行政庁の手にゆだねられることとなる。しかし、訴えが不適法となることにつき、原告に過失があるわけではない。すでに不存在確認の訴えという形で、国と国民との間に租税債務の存否につき争いがあり、司法権の判断をまつている際に、行政庁が右事項につき課税処分をなしたときは、国民がこの課税処分を争うものであることは自明である。しかしながら、不存在確認訴訟を取消訴訟に変更するか、あるいは取消請求の別訴を提起するか等のことは国民の判断にまかさるべきである。

被告の主張する課税処分があり、原告大阪労音がこれに対して不服申立ての手続をなしているが、まだ裁決がないことを附言しておく。 (以上)

(別紙第三)

法人税債務不存在確認の訴えは許されないことについて。

一、本訴のように、具体的な行政処分がなされる前に公法上の法律関係(旧行特法の公法上の権利関係)の存否確認を求める訴えは許されないと解すべきである。

法律上の争訟というためには、対立する当事者間に権利、義務ないし法律関係について具体的な紛争があり、それが司法権によつて解決に適するものでなければならない。わが国においては、たとえば英米法における宣言的判決のように、法令の解釈について意見の対立があるとき、直ちに司法権がこれに介入することは許されないのである。争訟性、すなわち、具体的かつ現実的な法律上の紛争が要求されるのである。そしてまた宣言的判決におけるように対立当事者間の具体的な権利、義務ないし法律関係の前提たる事実関係の存否等の紛争もわが国においては司法権の審判の対象とならない。

この紛争は訴訟上特定の権利、義務ないし法律関係の存否の主張として、原告によつて、裁判所に提出されねばならず、わけても確認訴訟は、当該権利、義務ないし法律関係そのものの公権的判断による確定自体を目的とし、給付訴訟におけるように権利、義務ないし法律関係を前提とし、結論としての給付命令そのものに既判力と執行力を有するわけではないのであるから、その対象となる権利、義務ないし法律関係自体の特定は厳密になされなければならないし、それは請求の趣旨のみで特定されるべきものである(三ケ月・民事訴訟法四二頁、一一二頁)。しかして、そこにいわゆる権利という以上特定人(債権)ないし一般人(物権)に対しその存在を主張、実現しうる内容をもつ法律上の利益であり、義務は反対概念としてこれに対応するものであり、法律関係はその当事者間の権利、義務の綜合的な法律上の関係でなければならないのである。その内容は右のようなものとして具体的かつ現実的な存在として特定していなければならないのである。かようなものでない以上、確認訴訟の訴訟物としての資格を持たないのである。そして、これは私法と公法において区別されるべきでないことは訴訟手続法上多言を要しない。

ところで、私法上の権利、義務ないし法律関係は当事者の法律行為その他の行動または事件によつて設定され、その公権的判断は第一次的かつ最終的に、裁判所によつてなされるに反し、行政(実体)法に基づく公法上の権利、義務ないし法律関係(法律自体で特定人の権利義務ないし法律関係を設定する特殊の場合を除く。)は行政権の処分(受理のような受動的準法律行為をふくめて)を契機として設定され、かような行政権の判断は第一次的な公権的判断として国家的通用力を有する。私法上の権利、義務ないし法律関係が私人の行為等によつて具体的に設定されるまではなんら法律上の評価の対象となりえず、したがつて訴訟物たる資格をもちえないと同様に、公法上のそれも行政権の行為以前は、裁判所の法律的評価の対象として訴訟物となりうる状態になつていないといわねばならぬ。かように解することが国家権力均衡の要請の下に採用された三権分立の制度ともよく調和する。三権分立制度は、三権がそれぞれの権限内の行為を右要請に従つて十分に遂行することを期待しているとともに、相互に他の権力の分野を尊重し相侵さないことをも予定しているのである。(これは司法権の法律審査権は慎重にされるべきであるとする司法権の立法権に対する態度に顕著にあらわれていることは周知のとおりである。)行政処分について司法権が事後審査をなしうるということは、行政権が第一次的な公権的判断をする権能を有することを前提にしているのであつて、事後の審査をなしうる司法権は事前にも判断しうるとの結論は当然には出て来ない。それは行政権の権能を司法権が奪うことを意味する。司法権が立法権や行政権に控制されることがないように、行政権もその権能行使について司法権の先行的判断を甘受しなければならぬいわれはない。これを許すことは行政権の存在理由を失わせることであり、司法権の制度的役割にも反する(雄川、行政争訟法一〇一頁以下、行政事件訴訟特例法逐条研究一七頁、一九頁)。

行政処分をするまでの公法上の関係は、たとえば、契約をする前の私法上の当事者間の関係と同様で、なんら行政権と国民との間には権利、義務ないし法律関係として具体化したものが存在しない。行政処分前は裁量行為であろうとき束行為であろうと、行政権としては、特定人に対してではなく一般的に当該行為をなすべき職員、権能を有するというに過ぎず、仮にその行為に出なかつたとしても当該行政庁が公務員法上の制裁を受けることはともかく、行政処分の対象と目されている特定人との関係で行政権が公法上の権利、義務ないし法律関係を設定したとすることはできない。行政処分前は行政処分という行政(実体)法の具体化、したがつて、法に定められた法律要件の実現、ひいては、法律効果の発生、変更、消滅はありえず、特定の公法上の権利、義務ない

し法律関係と目すべきものは存在しないのである。換言すれば、行政処分は、抽象的に存在する法律を、客観的に生起している特定人についての社会生活事実に適用する法的判断作用(その点で法的判断作用としての裁判と共通する。)なのであつて、これによつてはじめて行政権と特定の国民との間に権利、義務ないし法律関係が生ずるのである。行政処分前の紛争というのは、このような抽象的に存在する法律の解釈ないし行政庁の職責、権限の存否について、行政権と、相手方と目される特定人との間に意見の相違があるか、当該特定人に関する社会生活事実の存否についての認識の相違があるからであつて、いずれも法律上の争訟といいえない。

行政処分がなされてはじめて、抽象的な法律が特定人についての社会生活事実という内容をえて、こゝに法は具体化し、その法的判断作用の結果としての行政処分は第一次的に公権的意思活動として国家的通用力をもつにいたり、行政権と特定人との間には権利、義務ないし法律関係が設定され、かくてはじめて確認訴訟の訴訟物ともなりうるし、司法権の事後審査にも服するわけである。(東京地裁昭和三〇年五月二六日判決行集六巻五号一三四事件等のように、行政処分前に法律上の争訟がありうるとの前提をとつて、本訴のような訴えを適法とする見解は、前提において失当であると考える。この見解によると、具体的な行政処分前に、公法上の権利関係について法律的紛争が存在している場合には、裁判所がこれについて権利関係を確定しても事後審査の建前に反せず、かつ純然たる判断作用であつて、行政庁に給付を命じ、処分を代行するものでないから行政作用を不当に侵害しないと説く。しかし、他方で、この裁判所の判断そのものに拘束力のあることを是認しているのであるから、行政庁としてはその後これと背反した行政作用に出でることはできないのであつて、仮に行政庁に給付を命じなくても、行政庁の処分を代行したと同じ結果を来たすのであり、その意味で司法権が行政権を侵し、事前審査をしたことになるのであつて、これをしも三権分立の原則に反しないとするのは事の実体を直視しない憾みがある。なお、紛争がある以上、三権分立に固執し司法権の審査権を認めないのは形式論であるとする見解もありえよう。しかし、その紛争なるものは「法律上の争訟」性を有しないものであるのみならず、三権分立制度そのものが、国家権力の控制と調和によつて権力の均衡を意図した国家生活の知慧であつてそれ自体形式的分類方法といつていえないことはなく、司法権の審判権の限界そのものを問題とする本問題のごときにおいては、三権分立制を前提として論議を進めることがまず必要であろうと思われる。)

このように、行政処分前に公法上の法律関係についての確認訴訟が許されないとする主張に対し、いわば予防司法の見地から英米において広く採用されている宣言的判決の考え方を導入しまたはその理念の下に主として国民の権利利益の保護の見地から、あらかじめ司法権が法的判断をすることが好ましく、それはわが法制の下でも十分に承認されるべきであるとの論がある。そして、それは、いわゆる争いが成熟したとき、確認の利益のある場合に限定すれば足り、これを越えない限り正当とされるべきであると説く(たとえば、大阪地裁昭和三三年八月二〇日行集九巻八号一六六二頁)。しかし、宣言的判決の制度は英米においてすら特に成文法によつて認められた制度であつて、単なる判例法の形成発展によつて確立されたものではない。また、わが国と社会生活的基盤を異にすることも否定できないであろう。のみならず宣言的判決においてはさきに述べたように法律の効力のみについても、また要件事実の一部の存否についても判断を下すのであつて、すでにわが国の法律上の争訟の概念として判例、通説がとる立場と全く趣を異にしている。論者中には争いが成熟したときにおいても(訴えの利益があると認められるときにおいても)、裁判所が判断権をもたないとするのは正義に反すると説くものがある(たとえば前掲大阪地裁昭和三三年八月二〇日行集九巻八号一六六二頁)。しかし、成熟したとされる争いはすでに述べたように、法律の解釈そのものについての意見の相違ないし社会生活事実そのものの存否についての認識の相違に帰着するのであつて、それ自体が法律上の争訟性を有しない以上、訴えの利益の問題になるはずはないのである。右の論は解釈論を逸脱し立法論といわざるをえない。なお、宣言的判決といえども、たとえば単に原告が行為の基準としての法律の解釈に苦しみ司法的判断を欲しているだけで、将来原告が予想するような事態が発生するかどうか確定しない場合には、裁判所は判断を拒否しているのであつて、司法権による法的状態の不安定感の解消にもおのずから限度があることを示している一方、被告といえども現に権利侵害がある場合にこれが救済を否定しようというのではないことを附言する。

二、原告らは法人税債務の不存在確認を求めているが、その趣旨は課税処分によつて確定される以前の納税義務の不存在確認請求である。かような納税義務は別名抽象的納税義務と称されているごとく一般にいわゆる権利に対応する義務ないし債権と対応する債務ではなく、抽象的なものである。国税通則法(同法は租税債権関係について従来考えられていたところを基礎にして制定されたと認めてほとんどさしつかえないので、同法に即して述べることゝする。)一五条は法人税納税義務は事業年度終了の時成立すると規定する。こゝにいう納税義務が原告らの請求にいわゆる納税義務であると考えられる。この納税義務は給付としていかなる内容を有し、金額はいかほどであり、権利者からいかなる請求をうくべきものであろうか。現在の債務である以上少くともこれらについて的確に説明できなければならないはずであるがそれは不可能である。一般にいわゆる債務ないし義務に属しないことはこの一事から窺うことができよう。

旧法人税法は、各事業年度終了の日から二か月以内に確定決算に基づき申告することを法人に要求している(同法一八条、二一条)。すなわち、法人は事業年度終了とともに、決算の確定という作業をしなければならない(事業年度を定めない法人については、別途法定している。同法七条)。一定の事業年度中多くの取引、主として外部取引がなされるが、事業年度の経過とともにそれらの取引は固定される。しかしそのままでは損益は計算されない。事業年度経過後において、各勘定科目、仮勘定科目等を整理しなければならない。また、主として内部取引について、たとえば、減価償却、積立金の計上、前記損益の繰越し等の操作も行なわなければならない。そしてこれらの作業は単に法律の規定にしたがつて計算されるものではなく、その法人の意思により左右される余地のあるものである。こののち、これを株主総会等法人の意思決定機関にかけてその承認を受けなければならず、承認を経てはじめて決算は確定する。そしてこれに基づき申告するについては税法上の損益修正が権利として認められまたは義務づけられ、その少なくないものは法人の意思に委ねられている(たとえば、新規重要物産の製造等についての免税(同法六条)、指定寄附金の損金算入(旧法人税法施行規則九条)、受取配当等の益金不算入(同法九条ノ六)、所得税額の控除(同法一〇条)等)。すなわち、事業年度が終了したとき納税義務が成立したといつても、その段階では税法上はもちろん、商法上またはその他当該法人の根拠法令上当然に納税義務の内容が金額的に計算できるような客観的に確定したものではないのである。これは、法人が申告はもちろん決算の確定という手続をしない場合でも同じである。その場合には、税務官庁が法人に代つて決算確定と同じ操作を調査の段階でせざるをえないのであつて、これを経てのみ処分をすることが可能なのであるが、このような作業は法人が自らする場合と同様単に法令の規定を機械的にあてはめることにより一義的に遂行されるに止まるものではない。成立した納税義務が事業年度終了とともに法令の規定を適用することにより計数上当然に算出されると考えることができない以上、かような抽象的納税義務は金銭債務として観念することには無理があり、精々事業年度終了とともに、納税義務の基礎となる取引のうち主として外部取引が固定する、すなわち、課税標準の前提事実たる取引の一部が固定するという程度の意味しか持たないということができる。

このような納税義務に対応するものとしての権利の側から国税通則法は次のように規定している。右の抽象的納税義務は申告又は税務署長の処分によつて確定する(国税通則法一六条)。そして申告は法定申告期限までにすれば足り(同法一七条)、処分は法定申告期限以前はすることができない(同法七〇条)。もつとも、納税者の財産につき強制換価手続が開始され、法定の申告期限をまつて処分をしていたのでは国税の徴収が確保できないと認められるときまたは犯則事件等刑事事件に係る納税者について徴収確保の必要ありと認められるときは、税務署長は確定すると見込まれる国税の金額のうちその徴収を確保するため、あらかじめ、滞納処分を執行することを要すると認める金額を決定することができる(同法三八条三項、国税徴収法一五九条)。しかし、ここにいう決定は差押えの前提として金銭債権を形成するためのものであつて、納税義務の確定そのものではない(このことから逆に、確定前の納税義務は他人に対する給付義務を内容とする具体的な金銭債権でないことを論証する資料とすることもできる。)。申告または処分により納税義務は確定し、その内容はまさに、確定行為によつて表示された金銭債権であつてこの行為によつてはじめて国と納税者は債権債務によつて法律的に関係をもつのであつて、これを国税徴収権(国税通則法七二条以下)と称している。納税義務者の側からいえば、この国税徴収権に対応するものこそ金銭債務としての租税債務なのである。税務署長の納税義務確定行為たる処分をする権能は徴収権と別に賦課権と考えられている。賦課権は確認を主たる内容とする公法上の特殊な行政処分をすることのできる一種の形成権で除斥期限の制限に服する(同法七〇条、七一条)に対し、徴収権は一般の私債権と近似し、自力執行権と優先徴収権を除けばむしろ私債権と同一に取り扱うべきもので時効消滅の対象たる(同法七二条、七三条)ものと観念されている。換言すれば、賦課権は税務署長の一般的権能であり、徴収権は金銭債権である。したがつて、確定後の納税義務はまさに徴収権に対応し金銭債務と観念することができるが、確定前の抽象的納税義務については、これに対応する権利はなく、これとは別個に金銭債権を形成する税務署長の権能があるのである。のみならず、税務署長は法定申告期限前はこの権能を行使することをえないのであるから、事業年度終了の日から申告までの、または法定申告期限前の抽象的納税義務は義務と呼ぶか否かにかゝわらず、その内容は明確に限定することをえないのであつて、むしろその実質は税法の適用を受けうべき事実関係というべきである。また、申告をせず法定申告期限を経過した後においてもその内容が格別変更するわけではなく、せいぜい賦課権の発動が許されるようになる点が異なるだけである。

要するに、法人税債務が事業年度終了の日に成立するというのは、この年度中の主として外部取引が事業年度の終了によつて固定し、法人税算出のための一応の基礎が定まるということ、換言すれば事実関係にほかならないのであつて、これのみでは税務署長(国)は法律上当然に一定の法人税債権を取得し、その履行を求めることができるわけのものでもないし、金銭債務たる納税義務が法律の規定によつて一義的に算出できるものでもないのである。特に法定申告期限までは税務署長は一切、成立した納税義務を具体化する行為に出ることは法律上許されていないのであつて、法定申告期限経過とともに一定の期間を限り税務署長はその職責に基づき法律の規定に従い賦課権能を行使しうるに過ぎないのである。したがつて、納税義務の成立と法律に規定している以上、何らの法律的な関係(道徳的ないし宗教的関係という用語と対比する用法において)がないとはいえないかも知れないが、し細に検討すればその段階においては、納税義務者が一定の給付義務を国に負い、また国が一定の給付請求権を有しているという権利義務対応の関係とか両者を結びつける具体的な法律関係とかはないといわねばならない。

そこで、本件についてみるに、各所轄税務署長はいまだ原告ら(ただし、大阪労音の昭和三二年四月一日から昭和三三年三月三一日まで、同年四月一日から昭和三四年三月三一日までおよび同年四月一日から昭和三五年三月三一日までの各事業年度を除く。)に対しいまだに法人税に関しなんらの行政処分(課税処分)をしていないし、原告らから法人税に関しなんらかの申告があつたわけでもない。したがつて、具体的にはまだ租税法律関係はなんら形成されていないのである。もつとも、原告ら主張の如く「お知らせ」と題する文書を各所轄税務署長から原告らの一部のものに送付したことは認めるが、それは、被告と原告らとの間に、原告らが旧法人税法一条二項の社団に該当するか否かについて見解の相違があつたので、一応被告側の見解を示し、あわせて同法に基づく手続の遵守方を申し入れたにすぎず、それがために、被告と原告らとの間に具体的な租税法律関係が形成されたわけではない。よつて、具体的な法人税の納付義務が確定していないのに、抽象的な法人税の納付義務の不存在確認を求める原告らの本訴請求は、不適法である。

三、原告らは旧法人税法一条二項の規定は違憲であり、かつ原告らは同条項に該当する人格のない社団等にあたらぬことを理由として本訴を提起しているけれども、それは結局同条項が違憲であり無効であることまたは、税務署長にはこの規定に基づく処分権能がなく、原告らには申告義務のないことおよび原告らが同条項の適用を受けるべき事実関係にないことを主張するに帰するのであつて、それ自体法律上の争訟性を有していないといわねばならぬ。ただ、請求の趣旨が法人税債務の不存在確認の形式をとつているため、法律上の争訟性を有しているように見えるにすぎない。

もし本訴が許されるとすると、裁判所は法律上の争訟以外について裁判をすることになるのみならず、その範囲は無限に拡大して収拾がつかなくなるであろう(この点は前述の三権分立制の建前から本訴が許されぬとする理由と共通する。)。たとえば、在日外国人はあらかじめ退去を強制される義務のないことの確認を求める(出入国管理令四〇条)ことができ、医師はあらかじめ医業を停止される義務のないことの確認を求める(医師法七条)ことができ、古物商はあらかじめ行政処分を受ける義務なきことの確認を求める(古物営業法二四条)ことができ、極端な場合には、犯罪の内偵を受けたとき(大疑獄事件に発展することを阻止する意図で)先手を打つて、処罰される義務のないことの確認を求めて資料を公開させる等して捜査を頓座させることも不可能ではなかろう。しかし、右にいわゆる退去を強制されること、医業を停止されること、行政処分を受けること、処罰されること等の義務なるものは、それらの段階では具体化していないものであり、一見対応すると考えられる権利も結局は一般的な当該官庁の権能、権限にしかすぎないのである。換言すれば、退去を強制され、医業を停止され、行政処分を受けまたは処罰されることに該当する事実のないことの確認を求めるに帰するのであつて、不適法な訴えたること疑う余地はない(大判昭和一四年五月一六日(全集六輯一六号三頁)は法律事務取扱の取締に関する法律の違反者でないことの確認を求める部分は事実関係の存否の確認を求めるものとし、最高昭和三一年一〇月四日(民集一〇巻一〇号一二二九頁)は、死亡前遺言の無効確認を求めたのに対し、遺言そのものは法律要件を構成する前提事実であつて、法律関係そのものではないとしている。なお、会社の解散そのものが事実関係にすぎぬとする札幌地裁昭和三六年一月一七日判決(下集一二巻一号二八頁))。

また、もし、本訴が許されるとするとその主張、立証責任はいかに解すべきであろうか。一般に債務不存在確認訴訟においては、被告はその権利の存在を主張、立証しなければならないのであるが、原告らのいう債務が右に述べたようなもので、これに対応する権利が観念できないのであるから、一般の債務不存在確認訴訟におけると同様にやれば足ると簡単に割り切れないのではないか。もちろん、具体的納税義務として確定しているものでもないし、原告らとしても具体的なそれの不存在を主張しているわけでもないから、これに論及し、金銭債権としての納税義務について主張、立証することは不可能でもあり不必要でもあるわけである。そうすると結局旧法人税法一条二項の規定の解釈意見、ないしこの規定を前提として同法に基づき税務署長が処分権限を有し、原告らが申告義務(この義務も税務署長の申告を求める権利があつてこれに対応するものと観念することはできない。また加算税は申告しない(または過少な申告をした)という事実を主要な要件事実として法律を適用した結果の法的判断作用たる賦課処分によつて形成されるものである。)を負つていることを主張、立証する程度のことになるであろう。しかし、それは事実をはなれた法律上の主張、意見にすぎず、結局裁判所は法律上の争訟を審判するものとはいえない。さらに、たとえば、収益事業の内容たる例会活動を明らかにすべきであろうか。課税処分の要件事実の主張、立証のようにその全部を挙示して適法性を明らかにすることは不可能に近く不必要であることはすでに述べた。しからば、そのいくつかの例を上げれば足りるであろうか。その限度は理論的に何をもつて決定すべきであろうか。さらに、本件につき本案判決があつても、課税処分はありうるのであるから訴訟の目的たる紛争の解決はなしえない。

そして後行する課税処分を争う訴訟の訴訟物は本訴におけるそれと異なり、本訴の効力がその訴訟に及ぶと断定しうるとは考えられない。

四、確認訴訟には即時確定の利益、すなわち、原告の権利、義務または法律的地位に現存する法的不安を除去するために判決でこれを確定する必要性および適切性を要求されている。原告らは本訴においてこの点について、課税処分をされまたは場合によつては刑事処分される危険にさらされていることを挙示して即時確定の利益ありと主張される。しかし、これらの課税処分または刑事処分は原告らの抽象的納税義務そのものについての法的不安ではない。課税処分によつて、抽象的納税義務とは法律的には全然別個の金銭債権を形成し、刑事処分によつて、抽象的納税義務とは無関係に刑罰権を確定するものである。換言すれば、課税処分や刑事処分は抽象的納税義務そのものの履行を求め、または、その法律効果そのものの主張ではなく、全く別の法律関係を設定することなのである。前段述べたように、抽象的納税義務が成立したからといつて、直ちに一定の金銭債権の履行を求めうるものではなく、具体的には国の立場は成立前と殆んど異ならない。法定申告期限経過とともに、賦課権能を行使しうるけれども、それは成立した抽象的納税義務の履行の請求ではなく、租税債権という具体的な金銭債権を形成する行政処分として発動するのであつて、抽象的納税義務そのものとは別個である。権利義務ないし法律関係の不安除去という場合には、それ自体についての不安除去でなければならないのであつて、それと別個の権利、義務ないし法律関係の設定がなされることをもつて、右にいわゆる法的不安の除去というわけにはいかない。刑事処分についても同じことがいえる。原告らの行為につき抽象的納税義務と別個の法条に基づき刑罰権の確定をするのが刑事処分であるから、刑事処分がなされるおそれありとしてこれを本訴の確認の利益とするのは当らない。さらに、法的不安の除去というとき、それは現存するものでなければならないのであつて、たとえば甲が所有権を有するにかかわらず、現在それを乙が争えば確認の利益があるが、甲は、乙が将来争うかも知れない不安があるということだけでは確認訴訟は許されないのであるから、原告らの確認の利益はこの点でも存在しないということができる。

五、大阪労音について

北税務署長は昭和三八年五月三〇日原告大阪労音に対し、昭和三二年四月一日から昭和三三年三月三一日までの法人税につき所得金額二、〇一三、三二二円、法人税額七五五、三二〇円の決定処分をした。その後同税務署長は、昭和三九年五月二八日、昭和三三年四月一日から同三四年三月三一日までの法人税につき所得金額三、〇〇九、三四八円法人税額一、〇四三、五三〇円、無申告加算税額二六〇、七五〇円の決定処分を、昭和四〇年五月二八日、昭和三四年四月一日から同三五年三月三一日までの法人税につき所得金額二、八〇一、〇〇〇円、法人税額九六四、〇〇〇円、無申告加算税額二四一、〇〇〇円の決定処分をした。

右のように具体的な課税処分がなされた以上、抽象的租税債務不存在確認の訴えは無意味になり、訴えの利益を失つたといわざるをえない。具体的な処分の適否を争うのが、法律関係の確定に直截簡明に役立つからである。

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